本を読むこと、特にフィクションを読む意味について考えていた。
最近は自己啓発系の情報に触れることを意図的に多くしている。それらの中で本を読むこと、読書の益について沢山語られている。本を読む、とにかく何でもいいから沢山読む、そうすると、何かの折に本の内容を思い出したり、本に出てきた考え方に影響を受けたりする、そんな偶然にも似た何かの作用に期待することが出来る――みたいなことが語られている。だからフィクションであっても有益なのだ、と。
そうかもな、と。
以前は、作家ひとりの経験や知識なんてたかが知れたもんで、そんな狭い視野の「物語」なんて……と思ってたけど、偶然性に期待するということで何か納得できた気がした。ひとと出会って話を聞くとか、そういうのにも似て。
私は、フィクションに対して、言語リファレンスや技術マニュアルのような決定版的情報を期待していたのかもしれない。でも、偶然性、ねぇ、なるほどねぇ、それって、ググって過去のブログが出てきて役立つというのに似てる。つまり、私が目指している「検索可能性」ということかな、て。
今この瞬間の交流とかは期待せず、クローラーが集めた情報がいったん検索サーバのデータベースに安置されて、その後、誰かの検索クエリで引っ張り出されてその人の役に立つかもしれないという偶然性に期待してブログを書こうと私は思ったのだった(20年以上前のこと)。
だからSNSに書き込むとしても、何年も後に検索されるような、そんな内容にしようと思っている。その場の瞬間的な脊髄反射は、ネット社会全体としての傾向というか総体としての色合いとしては意味があるだろうけど、単体のミームとしてはあまり意味を持たないんじゃないか、なんて思ってる。ある意味文脈依存、前後の他ユーザとのやりとりが参照されて、初めて意味を帯び始める。つまり、将来の偶然性の場面では殆ど意味を成さない。
まあ、検索ヒット率と情報価値とのかけ合わせによる、未来における誰かさんの検索期待値との兼ね合いだから、私が介入することが出来ないんだけど。
でも、期待はできるでしょ。