結局、偉そうに理想像とか理想社会とか想定して、それとのギャップとしての社会問題・社会課題をネタ化して物語を作るとしても、最初の「想定」が自分の頭の中のビジョンのひとつに過ぎない。そのことを忘れないようにしないと。「こういうこともあるかもね」という控えめな姿勢で想定しないと。「これしかないだろ」という押しつけるスタイルもあり得るだろうけど、なんか、それ、重い。
イチから自分で理想像を作るなんてのは難しいししんどいから、出来合いのものを拝借して組み合わせて――と、いわゆる芸術とか創作というものの基本原理に寄りかからせてもらう。そのひとつがAIなのかもしれない。対象とか物質とか名詞しか材料として取り扱えなかった時代が終わって、論理や仕組みをAIによって手軽に材料化できるようになった、ということかもしれない。なんか、すごいな。動詞を使える。かつての前衛芸術を既製品として並べることができる。
数学的に合成できちゃう音楽や映像系のコンテンツの現状で一目瞭然だけど、いわゆる作品を成立させているビジョンの生成はAIで可能だ。時代は、そこからどのビジョンにするかを選ぶのかに関心が移りつつあって、そこには人間のもつ好悪の感情が必要かも。つまりは、生成物を利用=消費する消費者があくまでも生身の人間だからそうなるんだけど。この場合、AIが消費者の位置に座ることは考えない。まずはひとつずつ。
やがて、ビジョンの選択は消費者自身が容易にできるようになる。もちろんAIの支援がそこには一枚どころか、かなり深く噛んでいるだろう。そこまでの道のりを作るとか用意するとか踏み固めるのが、これからの「クリエイター」の役割になるだろうけど、早晩、消費者自身が自分で踏み固めるようになるから、まあ、「クリエイター」の失業も近い話だろうな。
そのうち「昨夜はこんな夢を見ました」というのが人間の最大関心事になるかもしれない。けど、それだって量子乱数を使うとAIが模倣できそうな気もする。そのレベルになると模倣じゃなくて、ほんとうにアンドロイドが電気羊の夢を見ちゃうのかもしれない。