tacassi noob!

人は元来、差別する存在なのだ、それが何故「差別はいけない」と主張することがあるのかというと、それは対象に歩み寄って新たな価値を自身に取り込むことが目的なんじゃないか――という仮説。

なぜ新たな価値を自身に取り込むのかというと、自身の存在をより盤石なものにするために必要だから。理由は何だって言える。面白いからとか、優れているからとか、美しいからとか、美味しいとか。でも、その全てに共通するのは自身の存在に影響するということ。存在というのは肉体かもしれないし歴史的評価かもしれないし天国への入場券や来世での保証かもしれないけど。

つまり、自身を他者に比較して際立たせることだと言い換えられる。世界を救うという大義が目的だとしても、「世界を救った」という冠称で自分が際立つでしょ? すると、迂回してくるけど、結局は自他を差別するというゴールにたどり着くことになる。つまり、「差別はいけない」と主張し行動することの帰結は、自他の差別だということになるかも。

宗教による差別とか、宗教と科学の違いとか、結局のところメタに視点を引いてやれば全部同じ問題になる。そんな「対話問題」のようなものを抱え込んでいる人類というのは、やっぱ滅びへの道をひた走り始めているんじゃないか、て思うんだ。

路傍の石ころのほうが、存在し続けるという点ではずっとマシかも。だから、昔からの宗教は石を祀ったりしていたのかな、て思ったりする。
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